漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

情報を出さない

■昨夜、鼻をかんだら、鼻水が底をついたような感覚があった。ようやく治ったかな。過去の日誌をさかのぼったら、毎年この時期に体調を崩している。そういうサイクルなんですな。

■情報がもっと届くようにといろいろやってきた。届けたいところに届かないもどかしさは、NPO職員なら誰もが感じたことがあるだろう。だから量を増やす。露出を増やす。切り口を増やす。それは役に立ったのだろうか。よくわからなくなった。

■いや、役には立っているのだ。それで知ったという人もいるし。ただ、いくら情報を増やしても、届いてほしいところには届かないのじゃないかという気がしている。たくさんの情報からものを選ぶには、それなりの余裕やスキルが必要で、そうじゃない人にはむしろ、ひとかたまりの巨大な「なんだかわからないもの」に見えてるのじゃないだろうか。

■選ぶためには自分の中の基準も必要だ。ところで、今まさに困っているときに基準なんてあるだろうか。そこに、これでもかとたくさんの情報が降ってきたら、かえって不安をかきたてるだけだったりしないか。ずいぶん前に情報化社会について書いた

■前にも書いたが、「正しい答があると思い込んでいる人の多い社会」が情報化社会だと俺は考えている。彼らがなぜそんなにも情報を集めるのかといえば、「どこかに正解がある」と思い込んでいるからだ。「正しい子育て」というものがあると思うから育児雑誌を買い漁るのだし、「自分にあった正しい進路」というものがあると思うから、資料の山にうずもれる。しかし、ちょっと考えればわかるがそんな便利な「正解」などというものはない。それでも、自分が知らないだけでどこかに「正解」があると思えば、人はひたすら役に立ちそうな情報を集めるだろうし、それをしなければ自分だけが「正解」を手に入れられないと思えば、不安にもなるだろう。碓井氏の言うことはよくわかる。

■そして、どんな情報も手に入れた時点でもう「正しくない」のだ。なぜなら、それが「正解」だという保証はどこにもないから。そしてまた「正しそうな」情報を探す。言い方を変えれば、情報化社会とは「必要な」ではなく「必要“かもしれない”」情報が意味を持つ社会、と言えるのかもしれない。

■それでいて、「正解」があると思えば、せっかく集めた情報も使えない。正しい選択以外許されないのなら、どれだけ情報を集め選択肢を増やしたとしても、結局どれも選べない。「自由の中の不自由」とはそういうことだろう。

こんなことを書いていながら、「自由の中の不自由」の片棒をかついでいたのかもしれない。

■情報を出さないということはできるのかな。わざわざ知らせるまでもなく、すぐ近くにあるということになれば可能かもしれない。小さなものがあちこちにたくさんある。普段の生活に入り込んでいる。フリースクールとしてそうするのは難しそうだが、いまあるいろんな団体や実践をくくる枠を見つけられたなら、もしかしたらできるかもしれない。