■「その場所には何人くらい来てるんですか」「どんな人が来るんでしょう」「なにをして過ごしていますか」「男女比は」「若い人はいますか」etc…。居場所というが、ただ場所があったって行かない。やはりそれなりに魅力的な場所でなくては。安心できるところじゃなくては。楽しいところじゃなくちゃ。それはその通りだ。運営者はそのような場所になるよう考えねばならないし、情報は出していかねばならない。
■一方で、いくら情報を集めても不安は消えない。むしろ、詳細な情報を得ようとすればするだけハードルも上がる。適切なスペースに適切な人数が適切な構成比で存在し適切な対応をしてくれる場所を探してしまうから。そして、そんなところはない。なぜなら探してる人がなにが「適切」かの基準を持っていないから。
■繰り返すが、運営者はそれでもそこがより多くの人に良い場所となるよう、工夫しなくちゃならない。どうせ「適切」なんてないのだと開き直ってはいけない。ただ、実際に人が行動を起こすのは、詳しい情報があるかないかではないと思う。近くにあるとか、空いてる時間があったとか、天気が良かったとか、もっと直接的で物理的な要因がほとんどではないか。
■情報は検討の材料にはなる。ところが、行動は検討をやめないとできない。情報で人は動かない。交通の便がよいところにあるとか、毎日開けているとか、いつでもすぐに見学できるとか、そういう条件は居場所の性格以上に大事なのだ。
■だから、「出張親の会」は有効なのです。主催者が出かけていく。そうやって、自分で動く人があちこちに増えれば、自然と出会いも増える。居場所とは移動の保障なんじゃないかと、そんなことを考えます。
私がいるところ、すなわち親の会なわけですよ。それは子供の不登校を経験した親御さんみんなそうなのです。ゆっちゃえば、皆さんがいるところ親の会なのです
昨日の「出張親の会」主催者のブログから。いいよね。「私がいるところが親の会」そして「皆さんのいるところが親の会」。なんと力強い。そうだと思います、本当に。リンク先から読んでみてください。
http://kamegayuku.hatenablog.com/entry/2016/03/13/060951
http://kamegayuku.hatenablog.com/entry/2016/03/13/150347