漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

ボランタリー

■一日中雨で比較的涼しい。したがって俺も比較的元気。昨日一昨日はほぼ死んでた。今日で生き返った。

■「ほぼ死に」っていいな。「ほぼ日」に対抗してつくろうかな。

■今月の『よつばと!』は危険です。本屋で声をたてて笑ってしまった。恥ずかしい。

■わざわざ電話で呼ばれたので、星槎高校の「オールの会」へ参加してきた。テーマは「学校の定義とは? 居場所とは?」。去年も同じようなテーマの回に出ている。「あなたの思う居場所の条件」を三点書けという。さて、みなさんなら何と書きますか。

■で、居場所の話は一旦置いといて、それきりになっていた、関係に「型」を求めてしまう人の話。まあ、前から何度か話題にはしてるのだが、例えば「教える/教えられる」なんてのは分かりやすい。自分の楽しさに相手をつき合わせる、というパターンも以前に書いた。訊かれもしないのに「楽しい」「好き」を連発するようだと怪しいと書いた。言葉で型は強化される。

漂流教室の活動にはなるべく「型」はない方がいいよ、とスタッフには伝えている。「型」によって関係は固定される。「型」に依ることで一時はうまくいくかもしれないが、子供は変わる。なのに関係が変わらないと、ひずみが生まれる。楽しさを維持するために子供に負担を強いる、という変な状況が生まれたりする。

■その点、さすが長く訪問をしてるスタッフは、ポイントを押さえて子供と会ってるな、と先日のミーティングで思ったのでした。曖昧で説明しづらい感覚なのだが、子供との関係が融通無碍で、向こうの必要に合わせいくらでも変化する余裕を持っている。芯があるから、子供と会うのに「楽しさ」のような外枠を必要としない。もっとも、その分、話す内容も地味だから、他人に感動を与えられるかは怪しいが。

■でも、誰かの心を揺さぶりたくてやってるワケじゃないしね。「楽しい」「好き」の連呼にボランタリーはないよ。それは鼓舞か暗示で、自発じゃない。

■それにしても「楽しい」「好き」はくせ者なんですわ。一見自分の感覚のようだが、それを行動の理由にすると、途端に外部基準になる。おまけに外の基準に合わせてることに気づきづらい。訪問を始めたばかりのスタッフの参考になれば、と思って書き始めたのだが、ダメだ。余計混乱させそうだ。むー。俺のイメージでは外骨格と内骨格なんだけど。えーい。先延ばし。