漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

サローヤン

サローヤンの『パパ・ユーアクレイジー』を読んでいる。まだ途中だが面白い。

「お前は知ってるかね―」彼はいった。「お前と私とは―父親と息子とは―あらゆる父親と息子というものは、実はほとんど同じ男なんだ。一人は年とっていて、一人は若い。と、同時に、われわれはまた知らない者同士でもある。町で出会った者同士よりももっと他人なんだ。もちろん、私はお前にいてほしいさ。しかし私に耐えられないのは、お前がそうしなきゃならんというふうに感じることだ。私を喜ばせようとしてね」
「僕は自分がいたくないと思ったらいやしないよ」
「ありがとう」

■親子は当然他人で、他人であることは子供の成長につれ自然と理解される。それが子供が学校に行かなくなると、急に目の前に突きつけられる。不登校による親の混乱は、「他人である子供」を突然認めなくてはならないことに依り、他人として位置づけをし直す過程が解決の過程なのではないか。「夏の全国合宿」のシンポジウムを聞きながらそう考えていた。

■では子供はどうか。子供にとっては、不登校が自身のほんの一部でしかない、と理解するかどうかだろう。確かに“それ”はある。しかし、己は“それ”だけで出来ているわけではないし、“それ”で全てが決まるわけでもない。「夏の全国合宿」で、不登校経験者23人のリレートークがあった。年齢が上がるほど、不登校について何とも思っていない。年をとることでどんどん楽になっている、という発言もあった。

「これは私がお前に覚えておいてほしいと思う事柄なんだ」彼はいった。「お前の人生で起きるどんな事でも、決して一つしか道がないということはないんだ。お前はうちへ帰りたくなるまで私と一緒にいられるし、お前が戻ってきたくなったら、いつだってお前は戻ってこられるんだ。一つの道しかなくて、他の道はない、なんていうことは決してないんだ」

■相対化ということが鍵なんだろう、と今更ながらに考えている。子供たちにその方法をどう伝えるか。サローヤンを読んでもらうか。