■午前中、免許更新。今の免許はICカードなのね。暗証番号を二つも入れなければならなかった。一つはいつも使っている奴にしたけれど、もう一つは覚えていられるか心配だ。
■免許更新の時に、安全運転自己診断をした。危ない運転をしているかどうかの質問に当てはまると思ったら「はい」に○をつけ、ついた数が一定以上になったら、「あなたは注意力が足りない運転です」みたいな診断がでるやつ。しかし、三年も運転していれば、一度や二度は「あー、前の車遅いな」とか「わっ、おまえなんか入れてやらね」なんて思うのじゃなかろうか。で、そういう運転は危険に繋がるということは百も承知なわけだ。その運転は危険だからだめ、じゃなくて、そういう運転は危ないよなということの自己認識とそういう気持ちにならない方法、そうなった時の対処法を教えるのがいいのではないか。などと考えていたら、これは今自分のやっていることにも関連しそうな気がした。
■下の件。
最大多数を満たす方法を採って、それだけで充分だったときがあるとすれば、それは子供の問題ではなく世の中の仕組の問題だろう。それほど重要なものではなかった、主張できなかった、無視していた等々。
多分、最大多数ではないところをカバーしている教育の実践があったのだろう。それは補習や個別の対応をする教師という形で学校にも存在していただろうし、家庭や塾にもあったかもしれない。何が硬直化しているかといえば、教育を学校のみで行うことにしてしまっていることだと思う。すべての教育実践が、学校志向になってしまっているのだ。硬直化していない世の中の時、どういう実践があったのか。50年代や60年代の学校、教育の在り方にはヒントになることが転がっているような気がしている。