漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

公共交通機関で

■昨日は訪問が全て休み、今日は地下鉄沿線の家ということで、2日続けてバス地下鉄で移動してみた。通勤時間と帰宅時間にもろにぶつかって、世の中にはたくさんの人がいるんだなあと感心する。たまにならいいが、毎日だとちょっと辛いな。でも移動の間に本を読めるのはいい。

■変にぬるい空気で、気持ち悪い日。漂着教室の暖房を切っておけたのは良かったが。昼はカレーうどんにした。多分、跳ねさせずに食えた。アウ・クル全体会議は山田に出てもらう。

ニコニコ動画の「作業用BGM」が優秀だ。マイケル・ジャクソン中森明菜が今日のBGM。仕事がはかどる。うーん。マイコーのCD欲しいなあ。こうやってネットで聴けるのに、形あるものを欲しがってしまうところがコレクター気質。もしくは年齢的なもの。

フォーラム宿題:学びの「多様化」について

■括弧のつけ方を間違えた。「学び」の多様化ではなく、学びの「多様化」について、だ。さて、

子どもの育ち方や学び方は時代の流れの中で非常に多様になってきているのです。私たちはこういう新しい事態に対応する教育・学校のあり方を再検討することが必要なのではないかと考えます。

先日のフォーラムのチラシに書かれていた文章だ。子供の「学び」が多様化している、というのはよく見る言葉で、オルタナティブ・スクールの案内などに使われている。そして俺はいつもある違和感を覚える。

■「子どもの育ち方や学び方」が現在「非常に多様になってきている」という主張には、かつてはそうではなかった、という前提が隠れている。それは本当だろうか。

■答は否だ。いつの時代も、人の存在が個別的なことに変わりはない。最大多数を満たす方法を採って、それだけで充分だったときがあるとすれば、それは子供の問題ではなく世の中の仕組の問題だろう。それほど重要なものではなかった、主張できなかった、無視していた等々。多様化も同様で、個人それぞれの学び方を保障できるくらい豊かな社会になったということではないのか。

■まとめる。

A:かつて子供の学び方は一様だった(隠れた前提)→現在の子供の学び方は多様化してきている→だからそれに対応する新しい教育のあり方を構築しよう

B:本来、子供の学び方は多様なものだ→社会の成熟により、多様な学びに対応できるようになってきた→だからさらなる豊かな社会を目指す教育のあり方を構築しよう

AじゃなくBでしょ、ということだ。子供の変化と捉えると、今の子はワガママだ、昔は良かった式の意見が必ず出る。それは往々にして、多様な学び方を阻害する。子供の変化ではなく社会の変化、しかも良い方向の変化なんですよ、と俺は考えているし、だからこの路線で進みましょうよと伝えたい。

■もっとも、良い変化だけかどうか微妙なところもあって、教育が世間の重要事になり、しかも世の中が硬直化してはみ出た子を吸収できないために、多様な学びを保障しようという動きになってるのかもしれない。個別対応は、誰もを同じ方向に同じだけ進ませよう、という使い方もできる。どっちに転ぶか注意が必要だ。