漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

敏感な理由

■あんみつさんがご自身のブログで、今回の遣り取りを振り返り、自他の思惑について考えている。
http://d.hatena.ne.jp/mononoaware/20060514
http://d.hatena.ne.jp/mononoaware/20060515
自他の別自他の別、と口うるさく言いながら、それらが完全に分かてるものだとは俺は思っていない。人は周囲と繋がって生きてるのだから。また、自分の願いも何もごちゃまぜにしたやり方が持つ力も知っている。小難しい理屈より、大きなお世話が案外効いた、ということはあるものだ。それでも、俺は出来るだけ自分の思いと他人の思いは区別したい。そういうタチなのもあり、仕事が仕事だからということもある。子供に関する領域は危険なのだ。

■例えば、あんみつさんは「親の思い」を(積極的にではないにしろ)肯定する。否定しろ、というのではない。でも、そんなに簡単に「仕方ない」と言ってしまっていいの、という疑問は湧く。「親の思い」なんて一般化していいの、とか。子供のためを思ってのことなのは疑ってない。ただ、その中に「自分の思惑(願いでも何でも構わない)」がどれだけ含まれているか、そこに敏感でいたいのだ。敏感でいたいのであって、排除しろというのではない。ここ大事。

■だって、体罰にしろ何にしろ「子供のため」という理由はくっつくのだ。「札幌市子どもの権利条例」が採択間近だが、条例に賛成反対両方とも「子供のため」だと主張してるはずだ。まさか、俺がイヤだから反対だ、という人はいない。それが理由の大半でもだ。「子供のため」は、そうやっていとも簡単に「自分の思惑」を一般化し隠す。「配慮」や「思いやり」もそうだ。「正しいこと」には、そういう危険が伴う。反対に、「悪いこと」は自分の思惑でしか語れない。悪いことを、悪いことのまま一般化する言葉はない。だから、人は悪事を働くに際し「正しさ」を求める。やらなければならなかった、仕方なかったんだ等々。そういう文脈でしか語れないものを、おそらく「悪」と呼ぶんだろう。

■話がずれた。つまり、「正しいこと」は、自分の思惑を隠したまま相手に要求してしまいがちなのだ。相手が弱ければ弱いほど、隠れされる思惑も大きくなる。つまり、無理を通す危険が高いということだ。しかも、善かれと思って。子供を相手にする仕事でそれはまずいでしょう。初めに書いたが、自他の別は完全にはつけられない。だが、できる限り混ぜたくない。俺の願いは、俺の願いとして把握したい。「子供のため」を言うなら、その上でしたいのだ。


■気温が20度を超える暑い日。明日はもっと暑いらしい。東京より鹿児島より暑いらしい。勘弁してくれ。なんて、寒けりゃ文句を言い暑けりゃ不平を漏らしで、何度かここでも言ってるが、人間なんて勝手なもんだ。もっとも天気は言うこと聞かないから、いくら勝手でも構わない。

■訪問は1件休みで2件。去年の夏頃から行きだしたところは、子供がずいぶん落ち着いた。不満を、声に出して理解できる言葉で言えるようになった。それは実際、たいしたことなんだな。