■この道を曲ったら訪問先、とハンドルをきったら道の真ん中に雪の壁。通れへんがな、排雪作業中か。しからば一本向こうの道から入ろう。あれ、こっちはトラックの列でふさがってんのか。くそ。こうなったらずっと遠くまで行って、ははは、裏手にまわってやる。まさかここから来るとは思うまい。って、うわー、前からブルドーザーが突っ込んで来るじゃない。てな調子で、あっちへかわし、こっちへ抜け、町内を迷路のように走り回ってようやく辿り着いた。
■という次第で少々到着が遅れました、と訪問先でことの顛末を話したら、子供がガムを差し出した。そうか苦労をねぎらってくれるのか。いただきます。なになに。こっちがリンゴ味でこっちがバナナ味。そんならリンゴ味をもらおうか。え。2個まとめて食え。リンゴとバナナをいっぺんに食うと味が。ライムに変わる。どんな方程式だ。これがリンゴで。これがバナナ。混じるとライム。いや、ならないよ。そもそもリンゴの味もバナナの味もしない。え。なに。ミカンと。バナナで。メロン。だからわかんねえって言ってるだろ。人工甘味料の味しかしない。いや、もういい。そんなにいらない。舌しびれる。しびれる舌。え。なに。味音痴。バカ言うな。この甘さが耐えられないだけで。いや、だからいらない。実験中止。しかし、あの刺すような甘味を識別できるのも、ある意味、味覚が鋭いと言えるのかもしれん。
■有朋高校での講演会からちょうど1週間。冒頭であれだけメディアとはなんだろう、という話をして、広告だの看板だのうわさ話なんて意見まで出てたのに、なぜ質疑応答では「メディア=マスコミ」になってしまったのだろうか。参加者の言う「批評的」とこちらの言う「批評的」の差はなんだったんだろう。この2点がひっかかっている。
■前者については、不用意に新聞記事の喩えを出してしまったせいもあるだろう。後者については漠然と思うことがある。つまり、あそこで発言していた何人かにとって「批評」とは「自分の所属しない世界について何か言うこと」なのではないだろうか。「マスコミの情報操作を鵜呑みにせず、批評的な目で見ることが必要だ」という話ならすんなり聞いてもらえるのだ。それが、同じ目を自分にも向ける必要がある、という話になると途端に迷い出すのは、「批評」は自分の所属外に対してすることと理解してるからではないか。じゃあ、自分に向かってするのは何かといえば、「反省」なんだろうな。つまり、よその話を聞いてたつもりがいきなり「反省しろ」と言われたわけで、こりゃ面喰らうのも仕方ない。これは「批評的」という言葉をそれこそ批評的に捉えず、そのまま流してしまったこちらの失策だ。
■というようなことがそのまま次回の改善につながるわけで、やっぱり継続してやっていきたいね。まず「批評的」に代わる言葉を見つけたい。