漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

家に帰ります

■こんにちは、ボラスタ高橋です。明後日から釧路に帰ります。最近実家に帰る回数が増えてます。

■退学から不登校から引きこもりを経験したふるさとなので、実家に帰るのはもちろん、釧路の街に居る、というだけで状況を知ってる当時の同級生に会うんじゃないかと思って嫌だったのですが、最近はそんなこともありません。「時間が解決する」ということを身に染みて感じます。

■なんだか昔のことを思い出しました。

■自分は中学校生活がとても楽しいものだったと記憶しています。担任の先生はなぜかハエタタキをいつも持っている人で、指し棒の代わりにハエタタキを使います。「なんでハエタタキなんですか?」と聞くと「正義を裁くためだな」と答えました。意味が分からない。でもおもしろい人だと思いました。2年生になったとき、所属している吹奏楽部の担任になりました。中学校生活がもっと楽しくなりました。こんなおもしろい人の話を聞ける機会がもっと増えるなんて、本当にうれしいことだと思いました。3年生の時も引き続き担任・顧問で、本当に楽しい中学校生活でした。

■高校に進学したときには、中学校と同じく吹奏楽部に入りました。でも1年生で吹奏楽部に入った男子は自分だけでした。吹奏楽部所属の女子とも話すことが増えたこともあって、クラスではどことなく浮いた感じがしました。

■なんとなくクラスメートと話せなくて、考えたら前の人からプリント渡されるとき、わざと紙をクシャっとさせてる気がするし、とある男子の横を歩いたら毎回その男子が肘を体にぶつけてくる気がするのです。気になったらもうダメでした。吹奏楽部の女子とクラスで話すことは止めました。自分はクラスでの生活がうまくいっていないと思いました。

■冬のとある日、昼練習で音楽室で楽器を吹いていたとき、中学からの同級生の男子が音楽室に入ってきました。まっすぐこちらに向かって歩いてきます。先輩たちがたくさんいるなか、1年生の男子がなんの遠慮もなく音楽室に入ってくる光景は異質な感じがしました。いつもならおどけるところを「どうしたの?」と生真面目に尋ねました。すると、「中学校の担任の先生が死んだ」と言いました。

■信じられませんでした。頭が真っ白になりました。すぐに音楽室を出て廊下に行くと、既に同じ中学の同級生たちが集まっていました。「なんで?」「わからない」「どうする?」「中学校いかなきゃね」「花買った方がいいのかな?」「何時につくかな?」雑多にことばが飛び交う中、真っ白になった頭に中学校の時の思い出が埋まっていって、中学校生活が楽しかったことを鮮明に思い出しました。その瞬間涙が止まらなくなりました。

■同級生たちと中学校に行き、花を渡して家に帰りました。いつものように夕飯を母が用意してくれていて、こんなことがあっても飯は食えるんだなと思いつつも、いつもより早めに布団に入りました。

■目を瞑ると、また先生の顔と中学校の楽しい思い出が溢れてきました。もう辛くてどうしようもありませんでした。でも死んだことは変わらない。だから、自分の中で一つ決めごとを作りました。
“先生のことを毎日思い出そう、先生のことを忘れないようにしよう”
それが先生を恩師だと思う証明になり、自分にできる弔いだと思ったのです。

■次の日、その次の日、1週間、2週間、自分で決めた約束を守るため、必ず先生の顔を思い出していました。でもある日、思い出さなかった日があったことに気づきました。あれだけ泣いて悲しんだくせに、簡単に忘れるんだなと思うと、自分が嫌になりました。先生への思いはちっぽけではないことをもう一度自分で確かめるためにも、先生のことを忘れないようにしようと改めて強く心に決めました。

■でも無理でした。どれだけ誓っても思い出さない日が出てきてしまうのです。次こそはと思っても、ふと昨日は思い出さなかったことに気づいてしまいます。本当に中学校で先生と出会えてよかったし、目一杯の感謝の気持ちを持っているはずなのに、気づけば先生のことを忘れてしまっている。自分に対しての許せない気持ちは日々強くなっていました。

■今当時のことを振り返れば、そのあたりで心がすり減ったのだと思います。「お腹が痛い」と母に告げて学校を休み、何度か同じ理由で休みを続けたあたりで冬休みに入り、冬休みがあけても学校には行きませんでした。

■もちろん今は”先生を思い出さなければ”と呪いのように思うことはなくなりました。「自分を責めることを止めよう」とあるとき明確に思ったわけではなく、なんか知らないうちに変わったみたいです。

■実家に帰ります。時間が解決してくれたみたいなので。