漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

ほめることについて

■こんばんは。スタッフの小松です。

■今朝、相馬さんが9年前に書いた漂流日誌の記事を読みました。『褒めるな危険』。

■褒める人はけなす人になりうる。「褒める人」がそのまま全員「けなす人」に転化するとかそういうことではないけれど、褒めるという行為って本当に難しい。褒める人にとっても、褒められる人にとっても。記事を読んで、いろんなことを考えました。

■自分のしたことについて褒められた子どもは、自分自身が認められたと感じるのではなく、自分がしたよい行いを認められていると感じてしまう可能性があると思います。そうなると、それをしていない自分は逆にけなされてしまうと捉えてしまいます。だから、「褒める」が一種の自分がとる行為に対する許可証みたいになってしまう。それを繰り返すと、褒められることばかりをしようとするようになるばかりか、自分で考えて行動することすらやめてしまう。そういう危険が、「褒める」ということにはあるのではないでしょうか。

■だけどつい、ほんとうに「すごい!」と思った時は、「おおお、すごいじゃん!」って言ってしまいたくなるものです。私は訪問のボランティアの他に家庭教師のアルバイトをしていました。ふだんやる気を見せなかった子どもがいつもより少し頑張って、点数を上げてきたので私はすごい勢いで褒めてしまいました。点数を取ったこと自体ではなく、いつもより頑張ったことを意識的に強調して褒めました。

■しかし、次の週からその子は、あんまり勉強しなくなってしまったんですよね…。褒めたことがインパクトになって、安心しきってしまったのか。それとも、テストという一つのイベントが終わり、それをものすごく褒められ、そこから先を考えることを放棄してしまったのか。なんにしても、責任を感じずにはいられませんでした。

■でもきっと、褒める側と褒められる側、どちらにとってもよい状態の「褒める行為」があるのではないかと、なんとなく思っています。「すごい!」って思う気持ちを素直に伝えて、褒められる側はそれを「自分自身に対する承認」であるというふうに「するっ」と受け止めることができるような。

■そのためには、何か良いことをしたということに対して褒めるという状態だけでなくて、だめなことしたときも、予定をすっぽかしてしまったときも、変わらず一定のリズムで無条件に認め合えるような関係を互いに築いていかなければいけないな、と改めて思いました。メンタルフレンドの研修を受けた時にそんなようなことを言われた気がします。そういう関係があれば、きっと「すごい!」と思ったことを伝えても、子どもはけなされる恐怖なんかを感じることはないのだろうな、と思います。

■なんだか、歯切れの悪い文章になってしまいました。今年は卒論も書かなきゃならない。もっとすっきりした文章をちゃんと書けるように訓練しなければ。