漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

はがれづらい人

■シフトが変わって、今週から月曜は訪問3件、スタッフ送迎2件。この混み具合は久しぶりだな。なにより事故を起こさないよう安全運転で。

■おまけにやたらと電話やメールの入る日で、なのにケータイの調子が悪い。電波が悪かったり電池が少なくなると電源を落す、わがままモードな我がケータイですが、今日は特にひどかった。目を離すと電源切れてる。そのたび起動させなきゃいけなくて、バッテリーがあっという間に減っていく。そうするとまたすねて電源落す。本当にケータイ替えなきゃダメだな。

■土曜の講演会で俺の興味をひいた話題は、「『居場所』という言葉のうさんくささ」ではなく、「価値がはがれない人はいますか」という会場からの質問だった。前半いなかったから想像だけど、「子供と会っていると自分の持ってる価値観がはがされる」というような西野さんの発言があったんだろう。

■結論から言えば、はがれない人はいないんじゃないかな。俺だって自分の物差しだけでガチガチな人間だったけど、ずいぶん柔らかくなったからね。岡村ちゃんも歌ってるよ。♪こんなんなった僕が言うんだ、信用しよう〜

■でも、「はがれづらい人」というのはいる。ボランティア希望者にも何人かいて、そのうち辞めてったり辞めてもらったりした。そういう人は、何か「守るものがある人」なんじゃないかと思うなー。前に「楽しい」「好き」を連呼する人は怪しいと書いたが、それもここに繋がってる気がする。「型」で守られるのって自分なんだよね。

■困るのは、「守るもの」がその人にとって「見たくないもの」なことが往々にしてあるってことです。見たくないからガチガチにガードする。指摘されても認めない。変化する見込みないよね、そのままだと。

■でもなー、とも思うわけです。じゃあ、なんでそーいう人が対人職に関わろうとするんだろう。「見たくないもの」を見ちゃう危険度は間違いなく増えるのに。多分、そういう人はいろんなところで何度も失敗して、辞めたり辞めさせられたりしてるはず。それを認めちゃうと自分の守ってきたものと直面してしまうから、失敗してないと思うために次々挑戦するのか? それとも内心は変わりたいのか?

■「はがれづらい人」はどうなりたいんだろう。本当に直観レベルなんだけど、「はがれづらい人」は「居場所」好きだと思う。「居場所」っていうのも「型」になりやすいよね。こうあるべき、という。その「型」が山田の言う「うさんくささ」なんじゃないのかのう。