漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

面白い学年だより

■訪問三件のところ、一件お休みで二件。今週は、サッカー日本代表の闘いぶりが話題になること多し。明日はクロアチア戦。ということで、来週のネタとしても観ておかなければな。

■講演依頼一件、スタッフ希望者一件あり。また、漂着教室開設に激励の電話が知り合いよりあり。いずれもありがたいことです。

■ある訪問先で見せてもらった学年便りがあまりにも面白いので、途中出てくる教師の名前以外は原文ママで以下に転載する。宿泊学習が行われた後に出された各クラスの学級通信から抜粋して作ったものだ。大見出しには「様々な課題提起をして宿泊学習は終わった。残された課題を、みんなはどのように解決していくのか」。見出しにしては長いなぁ。では、内容を。

・・(略)・・結局3組と5組でケータイとカメラのふたつの不要物が見つかった。でも本当にそれだけだろうか?その2件に関してはそれぞれしっかり反省する機会となった。だけど、もし同じように違反していて見つからなかった人は、「ラッキー、ばれなかった〜怒られずにすんだ〜」で終わってしまうのか?ルールを破っておきながら「楽しかったです。がんばりました。」なんて反省をして、仲間を、○○を裏切って笑っているのか?そうして「1組は団結力がある」だの「仲がいい」だのとクラスを評価するのか?そんなものは偽りだ。見せかけだけの友情やうわべだけの平和なんていらない。○○がこの件にふれなかったら何事もなく通り過ぎたかもしれない。でも○○は、大人として「大人の本気」を見せなくてはいけないと思う。本気でおまえたちを向き合いたいからだ。・・・・・・(2年1組 学級通信より)


・・(略)・・ばれなければいいや!もしかしてこんなことを彼女は考えていたのだろうか。旅行前、荷物の準備をしていたとき、何を考え彼女はカメラをバッグに入れたのか。グランドで出発集会を行ったとき、○○先生の「不要物をもし持ってきている人がいたら、バスに乗る前にここで出してください。後からお互い嫌な思いはしたくないからね・」という言葉をどんな気持ちで聞いていたのか?そしてその言葉を無視して、何を考えバスに乗り込んだのか。彼女は、学級ミーティングの時に「今日一日ルールを守って過ごせましたか?」とか「学級みんなで協力して活動できましたか?」と熱く語っていたのである。・・(略)・・ゆっくり話し合った。人にバレルとか、バレナイとかではなくて「自分で、自分の行動が恥ずかしくないのか。」というレベルで物事を考えられるようにすることが大事だとわかってくれた。(2年5組 学級通信より)


・・(略)・・自分にとっての責任。自分の成長。仲間への信頼。「あの人はばれたけど、私はばれなくて良かった」ではない。それは自分にうそをつき、先生を含めた仲間をあざむく行為である。
 以前、他のクラスの人が、名札に貼る2組のシールを持っていた。「2組の誰かがくれた、と言っていたよ。本人は申し出ること」と、話したらE君が「実は僕です。」と申し出た。シールなんて小さいこと。黙っていたら結局誰なのかわからなかったでしょう。でも、E君は自分のしたことを隠さなかった。・・(略)・・シールのことは小さなことだったかもしれない。でも、もしこれから先、E君が大きな失敗をしたとしてもE君ならきちんと話してくれるんじゃないか・・って担任は思う。そういうふうに人と人との関係、信頼が生まれていく。(2年2組 学級通信より)


・仲間が一生懸命やっていることを裏切る行為
「自分さえ良ければいい」「ばれなければ何をしてもいい」・・・そんな自分を偽って生きていく生き方をしてほしくないし、見たくもない。(2年3組 ○○が配布したプリントより)


実は、よく頑張っていたと思うのだ。
 委員の人たちも、それぞれに責任を果たそうと頑張っていたと思うし、今まで引率した宿泊学習の中でも良かった方だと思う。だからそこ言いたい。「なぜ、足を引っ張る行為があったのか。」と。自分に甘くしたくなる気持ちはわかるけど、全員が自分に甘い行動をとったら、200人いるこの集団がどうなるか、よく考えてほしい。それぞれの担任の言いたいこと、思いを、一人一人が受け止めてほしいと切に願う。来年は、文句ない修学旅行にしよう!

■まず全体を通して、学校の余裕の無さがにじみでている感じがした。最後の段は全体のまとめのような感じで、学年だよりを作った人から書いてあるのだが、そこに注目したい。人が200人いれば一斉に規律正しく動くことを求めるよりも、規律からはみ出す動きに組織がどう対処するかの余裕を持つ方がいいのではないかと思う。

■1組では「ケータイやカメラ」のような「不要物」が見つかることはなかったようだ。しかし、どうやら持ってきていた生徒がいるという情報をつかんだらしい。それに怒りを覚えるのはわからないでもないが、この書きっぷりはどうだろう。はっきり言ってこれは脅しだ。カッコでくくられた「大人の本気」とやらは、気の小さい生徒をビビらせるのに十分だろう。

■5組の学級通信はずいぶんと文学的だ。委員かなにか役目を持った女生徒が「不要物」を持っていたらしい。彼女の気持ちを読み手に想像させながら、それがとてつもない悪事であるかのようなイメージを喚起させる文章を綴る。そして後半に、彼女と話し合い、如何に更正したかを書く。これほどまでに心を想像して書くことのできる人ならば、この学級通信が配られた時に女生徒がどう思うか、考えてみた方が良かったのではないか。名前こそ出ていないが、クラス中が自分の事をこのイメージで見るのだ。反論を許さないイメージをクラスの中に担任がうち立ててしまったのではないか。果たして、彼女のしたこと(宿泊学習に「カメラやケータイ」を持ってくること)がそんなに悪事であるのかは、人によって意見が違うところだろうが、それが悪事であったとして、こう書かれることはいかがなものだろうか。

■2組の先生は「人と人との関係、信頼」について、逸話を披露してくれている。これによると、どうやら信頼というのは、聞かれたら必ず答える関係らしい。中2というと「走れメロス」を国語で勉強すると思うのだが、あの中では一点の曇りも無く、人の言葉を信じそれに応えることだと勉強することになるのではないか。メロスもセリヌンティウスもお互いに「君はこのようなことを思っていなかったか」と問いかけることはしなかった。彼らは自らの心の内を贖罪の念を持って相手にさらけ出した。それはそのことが彼らの人生にとってそれだけの重みを持っていたからだ。「名札のシール」の件にそれほどの重みがあるのかは知らぬ。しかし、たとえその重みがあったとしても、「申し出ること」と生徒に告げてそれへの返答があるかどうかで人の信頼を測るというのは、それを測る人の物差しの小ささを伝えているように思う。

■さて、みなさんはこの学年だよりを読んで、どう思いますか。