■体罰の話はずいぶんとみなさんの心を騒がすようで、コメントも大盛況ですね。なんか「体罰容認派」と思われているらしい山田です。こんにちは。えと、つらつら思ったことを書きます。
かつて体罰に意味がある時代はあった
人をたたく・蹴るといった行為も、相手に何かを伝えようとして行われることはある。それは一方的に成されるものであって、それに応える術はないけれども、その行為の意味は、する側/受ける側に共通の了解基盤があれば伝わる。かつて、その了解が成り立っている時代があった。例えば「今日忘れ物したから先生にたたかれた」「そりゃ、あんたが悪いからねぇ。しかたないでしょ。気をつけなさい」ということで、たたかれる意味を家庭でも教育していただろう。「教育的効果」というのがコミュニケーションにより人の変化を促すことならば、受ける側がたたかれたことの意味を考えられる個人的余裕やそうし向ける社会状況がある限り、「教育的効果」はあると言える。
する側が自分の気持ちをはき出すだけの暴力行為の隠れ蓑に、体罰はなりえる
上で書いた内容を隠れ蓑にして、殴る側のいらだちをぶつけるということに使われる場合は往々にしてある。これは何が原因であったとしても、認められることではない。
「これで何かを伝えようとしているんだ」VS「これは気持ちの吐き出しなんだ」
一方通行でしかないたたく・蹴るといった行為の意図を受ける側が見出しの前者のように捉え、する側が後者のように捉えるならば、上に書いたことの危険性は大分減る。「『先生がたたいたのは、こういうことだったんだ』と気づいた」「自分はこういうつもりでたたいたと生徒が理解してくれた」というような言葉は、この状況が成り立っていたということだろう。逆に受ける側が後者のように捉え、する側が前者として捉えているならば、「どういうつもりでたたかれた/たたいたか、わからない」という点で思考は終わり、受ける側が傷つくだけになる。