漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

長いなぁ

体罰の話はずいぶんとみなさんの心を騒がすようで、コメントも大盛況ですね。なんか「体罰容認派」と思われているらしい山田です。こんにちは。えと、つらつら思ったことを書きます。

かつて体罰に意味がある時代はあった

 人をたたく・蹴るといった行為も、相手に何かを伝えようとして行われることはある。それは一方的に成されるものであって、それに応える術はないけれども、その行為の意味は、する側/受ける側に共通の了解基盤があれば伝わる。かつて、その了解が成り立っている時代があった。例えば「今日忘れ物したから先生にたたかれた」「そりゃ、あんたが悪いからねぇ。しかたないでしょ。気をつけなさい」ということで、たたかれる意味を家庭でも教育していただろう。「教育的効果」というのがコミュニケーションにより人の変化を促すことならば、受ける側がたたかれたことの意味を考えられる個人的余裕やそうし向ける社会状況がある限り、「教育的効果」はあると言える。

する側が自分の気持ちをはき出すだけの暴力行為の隠れ蓑に、体罰はなりえる

 上で書いた内容を隠れ蓑にして、殴る側のいらだちをぶつけるということに使われる場合は往々にしてある。これは何が原因であったとしても、認められることではない。

「これで何かを伝えようとしているんだ」VS「これは気持ちの吐き出しなんだ」

 一方通行でしかないたたく・蹴るといった行為の意図を受ける側が見出しの前者のように捉え、する側が後者のように捉えるならば、上に書いたことの危険性は大分減る。「『先生がたたいたのは、こういうことだったんだ』と気づいた」「自分はこういうつもりでたたいたと生徒が理解してくれた」というような言葉は、この状況が成り立っていたということだろう。逆に受ける側が後者のように捉え、する側が前者として捉えているならば、「どういうつもりでたたかれた/たたいたか、わからない」という点で思考は終わり、受ける側が傷つくだけになる。

現在は、体罰に意味を与えない時代である

 現在は体罰について、する側/受ける側の了解の存在をなくそうとしていて、かなり成功している。それは二番目に書いたことの危険性を避けるというためにはいい方法だし、理性に対する信頼を形作るためにもそうあるべきだ。ただ、困っているのはこれまでその方法をとってきた先生/その了解がある中で育ってきた親という、効果があることを実感している人ではないか。

■午前中、フリースクール等ネットワークの会議。一学期中の総括と二学期の行事について。遠足やりそうです。午後、訪問・送迎それぞれ一件。いってきます。