漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

凪の日

■えー、その書き方だと俺は日誌で不穏なことばかり書いてるみたいじゃないか。断じて違う、とも言い切れないところがちょっと悲しいですが。でもまあね、波風立てるんじゃなきゃ、ものを言う必要なんてないわけだしね。

■なんとなく調子の上がらない日曜。電話もリンとも鳴らず、メールも来ず、カレーを作ったりして静かに過ごす。実際には波風どころか凪の一日。無印良品グリーンカレーキットを初めて使ってみたが、なかなかおいしいじゃないか。カレーにはマッシュポテトが合う。今日はカレーに入れてしまったが、ご飯の代わりにカレーをかけて食べてもおいしいかもしれない。

■一昨日の日誌についてあんみつさんのコメント。

別に持ち上げたり、おだてたりする必要はないけれど、「よくやったね。がんばったね。」くらいは言うんでしょ、相馬さん?そうだ、私が聞きたかったのは、それだわ。認めるべきところは、認めてるんですよね、ということです。

■「よくやったね。がんばったね」ということも構えて言いません。ただ、認めるか認めないかということであれば、彼らが認めて欲しいことは認めます。正確には、認めてもらいたいと思っている事実を認めます。「認める」というよりは「受け止める」という言い方が近いかな。あまり好きな言葉ではないので使いたくありませんが。

■繰り返しになりますが、簡単にほめる人は簡単にけなす人だと俺は思っています。「ほめる」というのは結局ほめる側の価値観でなされることです。ほっといたら、そりゃ俺だってほめますよ。「よくやったね。がんばったね」と言います。でも、それはたまたま俺の価値観に、もしくは世間の価値観に沿ったものだったからなんじゃないか。沿ってほめるなら、沿わなければけなすでしょう。その恐れは拭えません。けなされるかもと思えば、自然、言いたいことも言えなくなるでしょう。この人はほめてくれると思われるより、この人はけなさないと思われる方がいい。だったら、けなすことにつながるもの、例えばほめることは避けよう。意識してほめないくらいで、ようやくけなさなくなる。俺はそう思ってます。

■もっとも、これは俺の立場でのことです。誰もがそうでは気持ち悪い。また、なぜだか「ほめるな」と言われたら頭から信じて全くほめない人がいたりするのですが、「ほめない」という行為自体に効能があるのではなく、意識して関係を築くところに意味があるんだと俺は理解しています。ああしろこうしろ、そうすればこうなる、といった短絡な話ではないということだけははっきりさせておきたく思います。そういう短絡理解と「ゲーム脳」みたいなインチキはきっとどっかで繋がってる。