漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

不登校100万人化計画

社会学者の北田暁大氏が上野千鶴子氏の移民論について批評した記事の中で、日本と諸外国の外国出生者の割合について述べている箇所がある。諸外国では2割以上のこともよくある外国出生者だが、日本では1.1%しかいない。にも拘わらず、多文化共生に懸念を持つ人が多いことに苦言を呈してこう語る。

人口の一割が移民になったとして、その移民の統合教育や異文化教育、権利保障をこそ考えるのが社会科学者の役割であって、日本特殊性論を振りかざし、「寝た子を起こすな」式のレトリックでもって日本社会を甘やかすのであれば、そんな社会は「社会」の名に値しない。そこには「社会など存在しない」。

しつこく繰り返すが、「移民が来ると反対派が騒いで治安が悪くなる」から「移民は無理」というのは、「日本では家父長制が強固だから、変えるのは客観的に無理。だから等しくみんな耐え忍ぼう」というのと同じロジックである。言うまでもなく差別は比較不可能ではあるが、差別者のロジックはたいてい同型である。

■これを読んで、不登校も相似形だなと思った。小中学生の一割が不登校になったとして、その教育や権利保障をこそ考えるのが教育学者や行政の役割であるだろう。そして「不登校が増えるのは生徒指導上問題である」から「不登校をゼロにする」というのは、「日本では義務教育は学校のみで行うことになっていて、そこに適応しない人のことは考えない。だから等しくみんな耐え忍ぼう」ということである。これは差別の構造そのものだ。現在不登校児童生徒は小中学生の1.2%しかいない。しかし、これでも減った方がいいと考えるむきは多い。日本の教育は法律上全員に教育を施すが適応できないものは置いていくという、差別構造を前提として行われているとすらいえるのではないか。

■昨年秋に、ようやく文科省不登校を「問題行動」と看做さないように、と通知を出した。しかし、この通知ですら

児童生徒によっては,不登校の時期が休養や自分を見つめ直す等の積極的な意味を持つことがある一方で,学業の遅れや進路選択上の不利益や社会的自立へのリスクが存在することに留意すること。

のように、登校しないことにより不利益が生じるのは社会の有り様がそうなっているからという視点は一切無く、

個々の児童生徒に応じたきめ細やかな支援策を策定することや,社会的自立へ向けて進路の選択肢を広げる支援をすることが重要であること。さらに,既存の学校教育になじめない児童生徒については,学校としてどのように受け入れていくかを検討し,なじめない要因の解消に努める必要があること。

のように、不登校という現象を個人が集団に支援されなければいけない状態になる問題として取り扱おうとしている。教育を受ける権利をどう保障するかが、教育機会確保法が制定された今、考えるべき課題として挙がってきていると思うが、それは教育の自由を個人が行使するということに他ならない。現状1.2%しかいない不登校児童生徒は、教育の自由を自ら行使する前提状態にあるとも言えるのだが、それがこのように扱われるのではいけない。この点、確保法でどうにかできるのか。

■こうした状況を考えるにつけ、いつも思うのだ。不登校している人は全小中学生の一割にならねばならないと。これが自分のTwitterプロフなんかに書いてある「不登校100万人化計画」の意味するところだ。不登校児童生徒数が100万人になれば、マイノリティとしてその権利や人生を真剣に人々が考えだすだろう。ちなみに、札幌だけなら1万3千人。それは全然学校教育の敗北なんかじゃないんだよ。(水曜日)