漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

喩えはやめて

■また蒸し暑い日が戻ってきた。ぐったり。

■漂着教室ではなぜか急に詰め将棋で盛り上がっている。寺沢くんがやっていたのを、周りの子らが集まってわいわいやりだした。「やらせてやらせて」で始まるのが子供の最初の自発行動で、そこで出来たり出来なかったりしながら、俗に言う「成功体験」を積む(これ、別の言葉ないのかな。俺が子供だったときはなんて言ってたろう)。「やらせて」を気軽に言える場所はどこかに持っておいた方がいい。

■別の話。川崎市の市長がセシウムを含む給食食材について、「教育的側面からの使用」を主張した。

川崎市の小学校給食で、放射性セシウムを含むと分かった県産冷凍ミカンや山形県産リンゴ缶詰を使うことについて、阿部孝夫市長は四日の会見で「危険の中で生活していることを子どもたちが知ることが大事だ」と語り、教育的側面からの使用を強調した。
(中略)
横浜市鎌倉市が冷凍ミカンの使用を見合わせていることへの質問に、阿部市長は「このレベルでビクビクする教育をすることが間違い」とし、「道路では車にぶつかる危険性があり、すれ違ったあかの他人に刺される可能性もある。だから人とすれ違うな、と教育しますか?」とも。
(2012.9.5 東京新聞

■道路の喩えを使いたいなら、彼の主張は「人とすれ違うな」ではなく、「通り魔にぶつかれ」と言わないと正確ではないと俺は思う。でも今回言いたいのはそこではない。こういう問題で喩え話をするのはやめてくれないか。

■だって、喩えは結局嘘だからだ。分かりやすいように言い換えているように見えるが、一部を強調し、ほかを簡略化した違う話につくりかえたのが喩えだ。Aの話を論じるのにBを論じてたら、それは嘘でしょう。少なくとも、喩えを基に判断はできない。

■これに反対したとする。その喩えはおかしい。正確には「通り魔にぶつかれ」でしょう。すぐ反論が返ってくる。自動車事故で毎年1万人近くが死んでいる。それでも車をなくせとは言わない。車にぶつからないよう教えるのが教育だ。いや、あえて交通量の多い道に子供を連れて行くことが教育なのか。もうワケが分からない。

■だから、大事な話では喩えは使わない方がいい。反対に、大事な話で喩えを乱発する人は何かを誤魔化している。喩えは結局喩えでの議論になってしまう。そしてそれは論じたかったこととは間違いなくズレている。