■子供のプライベートな空間へ入り込み居座るのが漂流教室の「仕事」だ。これは訪問に付随する根本的な構造で、どれだけ丁寧に了解を取ろうと良好な関係を築こうと消せない。だからこそ、それ以上相手を脅かさない対応がなにより優先される。
■当初は警戒したネコに接するような態度を心がけていた。うかつに動けば逃げてしまう。関係づくり以前、目の端に存在を確認しながらまずはおなじ空間で過ごすのを第一にする。しばらくはうまくいっていると感じていた。だが、突然気づく。自分から見た相手ばかり考えていたが、相手から自分はどう見えている?ひょっとしてヒグマのように見えていたら? クマである必要すらない。成人男性は十分怖い。一方的に相手を見て、「相手を見る自分」は透明化していた。「脅かさない」前提から見直さねばならない。
■夏井氏のnote「よきことをなす人たちによる暴力・二次加害」を読んだ。元になったマツウラマムコ『「二次被害」は終わらない—「支援者」による被害者への暴力—』も取り寄せて読んだ。
■「支援者」は「一方が他方を助けるという非対称な関係」をつくる目的で被害者に近づく。支援者による支配をマツウラマムコ氏は「脅す」→「あぶり出して呼び寄せる」→「支援/支配する」と段階を分けて解説する。性暴力に限らない。不登校にも当てはまる。これまた構造の話だからだ。いくら「支援」ではないと言い、学校に行っているかどうかは問わないと言ったところで、なにもないのに赤の他人が家まではやって来ない。「居場所」へ子供が足を運ぶこともない。「不登校」「困難」「生きづらさ」、そういったワードで人をより分け、用意した「支援」へ呼び寄せる。相手は実際に困っていたのかもしれない。サポートがあって助かったと感じたかもしれないが、それらと構造は関係ない。
■フリースクール、フリースペース、居場所、子ども食堂、学習支援……。およそすべての「子供のため」の活動は、実際は大人の都合に子供が合わせる形を取る。ミーティングだの子供の声を聴くだのといった話の前、場所をそこに決めたのは誰か。時間を人数を金額を決めたのは誰か。そもそもそのような「支援」を望んだのは誰か。勝手に「支援の場」をつくり、「それが必要な人」を探す。「脅す」は「ねぎらい」に「あぶり出し呼び寄せる」は「適切なサポート」に変換され、支援者は「支配する」の部分に気づかない。その無自覚さが加害を呼ぶ。フリースクールでは慣例的に職員を「先生」ではなく「スタッフ」と呼ぶ。学校ではないことの強調だが、これも「非対称な関係」を隠す一因になっているかもしれない。俺が自身の姿に無自覚だったように。
■自虐でも開き直っているわけでもない。そうなんだからそうなのだ。だが、自覚は変化の契機になる。自分はクマかもと思えば自ずと行動は変わるでしょう。支援に支配が潜むと知れば、回避の可能性も高まるだろう(過信は禁物)。「被害者の回復を助けないもの、被害者の回復の妨げになるもの」にならないよう、試行錯誤しながら違う道を探す。
■つかい慣れた言葉を疑い、頼りにしていた手法を解体し、無自覚に立っていた場所を見直す。その繰り返し。言うほど簡単じゃないのは身をもって知っている。変わったつもりで変化のない自分にウンザリしたりもするが、それでも、なにもしなかったよりはきっとマシになっている。