■不登校についての学習会をしている明田川さんに誘われて、NPO法人猫の手さっぽろ主催の猫の手カフェに参加した。猫の手さっぽろは、「これからの社会を生きるために必要な力を身につける教育活動に取り組む札幌の学校を応援することを通して、札幌の子どもたちの人材育成に寄与することを目的としている」という団体で、退職した教員の方々が多い。その猫の手カフェではゲストスピーカーを呼んで様々な話しを聞いて交流する。今回は「生きづらさに寄り添うとは?〜学校と居場所づくりのこれからを考える〜」というテーマで声をかけてもらった。
■他に二人のゲストスピーカーがいて、一人は高等支援学校から大通高校に行った人で、もう一人は現役の大通高校生だった。一人目は大通高校在籍の年が漂流教室のスタッフだった人と同じくらいだなと思い確かめたら、知り合いだった。世界は狭いものよ。自分の話しは、最近の大阪で話したことをベースに、居場所と休みについての漂流教室で考えたことを出してみた。話せば話すほど形になってきた気がする。
■フリースクールが対価をもらって不登校に対する支援を行うことは、塾と同様の運営上の悩みを持つことになる。フリースクールの取るべき支援とはどのようなものであるべきか。自分はそこでNPOとしてのフリースクールを取り戻すべきだと考える。それを考えるのに、自然保護団体をモデルにしてみよう。自然はただそこにあるだけで、人の役に立つ何かをしてくるわけではない。しかし、人は自然に何らかの意味や機能を見出し利用して生きるので、自然を保護する必要性に気づき、それを支援する仕組みが出来ている。それは行政でもあるし、自然保護をしているNPOもそうである。自分が直接の利益を得るわけでなくても、それが人に必要であると考えるから人は税金を投入することをOKするしNPOに寄付もする。
■さて、そこでテーマになっている「居場所」とは何であるか。端的に言えば、それは自然のようなもので、人が生きる基盤になっている時間と空間を保証するものではないだろうか。時間や空間(時空間)を利用して、人は成長に必要な知識や能力を伸ばし、何かを生み出す活動を行う。そうした機能を維持するための回復に充てるためにも時空間を利用する。全ての活動は時空間をリソースとして行われ、時空間をコントロールすることが人間の能力として求められる。それはあたかも、元々は原野であったところを開拓して町を作ってしまうと、原野であったころの姿を忘れてしまうようなものだ。であるなら、元々の何もしないでいい時空間=何をしても良い時空間を保障されることは必要であり、それが居場所の機能であると思うのだ。
■というような話しをざっとしたところ、この「時空間」というキーワードはヒットしたようで、その後の参加者の話の中でも使われていた。この言葉が今後どんな風にみなさんの中で広がるのか、自分の話に興味を持ってくれた人数名とはこれからも話をしましょうと言ってあるので楽しみだ。(日曜日)