■「メンタルフレンド」とは何なのか、“何をする人”なのか、“何をしなくてはいけない人”なのか私にはよくわかりませんでした。それらに関するサイトをちょくちょく見てはいましたが、その時は「なるほどね~」と思っていたかもしれませんが、画面を閉じるとすでに「なんやろな~」と思っていました。「メンタル=精神、心」で、「フレンド=友、友達」だから、「心の友かな?」なんてことも考えていました。そして、「心の友ってなんやろな~」と思っていました(笑)。そんなことをふと思い出し、考え、忘れを繰り返していると、4年過ぎていました。
■私が訪問したのは、当時中学生に上がりたての“男子”(以下、Aくん)でした。初回面談では、実際にAくんの家に行き、今後のスケジュールについて互いに向き合いながら話し合いました
一見、シャイな雰囲気を持ち合わせ、声もとがった感じではないAくんに対しては、それほど緊張感は持っておりませんでした。しかし、他人の家に入るということが久しぶりすぎて、A君の家の匂いに慣れるのに時間がかかりました。そのことが私を強く緊張させました(このように言ってしまうと、悪臭だったのかと勘ぐられそうですが、そういう意味ではなく、どんな人、どんな場面であれ、初対面はお互いに違う匂いに敏感であり、おそらくA君自身も知らない人が来て、私の匂いに驚いていたんではないではないかと今思います)。
■約4年間、週1回何をしていたかというと、「ゲーム」をしていました。具体的には、Nintendo Switchのゲームが中心でした。スマブラ、マリオ、カービー、時々DSのゲームをしていました。おそらく、ゲーム以外したことはなかったと思います。4年間淡々とゲームを1時間して訪問を終えていました。話の内容もゲーム一本であり、彼の日常生活、学校生活についての話は年数回あるかないかぐらいでした。話があっちいったりこっちいったりしますがご了承ください。すでに少し述べましたが、関わり当初は心のどこかで、「何かしなくてはいけない」「何か変化があればいいな」と思っていました。しかし、時間が刻々と過ぎていく中でいったい自分はA君と出会ってなにをしてやれているんだろうという疑問がわいてきました。いつも変わらないA君を目の前にするたびに、そのことが私の頭を占領していました。
■訪問開始して4年目、私が大学院を修了する年でした。大学院では実際に地域から来る、いわゆるクライエント(来談者)のセラピストとしての実習がありました。そこでは、クライエントについての情報を細かく集め、問題解決のために一緒になって進んでいくということを前提にしているため、そのクライエント自身の“変化”は比較的イメージしやすいものでした。しかし、メンタルフレンドとなると話が変わってきました。今、目の前にいるのは、たしかに不登校の子だが、それは私にとっては正直な話、どうでもいいことだなと思っていました。仮に今、私が心理士としてAくんの前にいるとなれば、「不登校」のことを話題にせざるを得ないでしょう。ただ、現実そうではない故に、私は特にA君がどんな人なのか、どんな生活をしているのかを細かく聞こうとはしませんでした(A君自身もシャイなところがあり、自分のことを話すのが得意ではないことなどを考慮してですが)。
■山田さんや相馬さんにも少し相談し、なにも怖がらずに聞いてみなよと声をかけてくださいましたが、私はどうしてもAくんに日常生活についての質問を投げかけることができませんでした。というのは、その必要性があまり感じられないと思ったからです。こう言ってしまうと「冷たい人間だね」と言われてしまうかもしれませんが、私としては、彼のことを深く知らなくてもなんとか二人でやっていける道を探そうと思いました。
■ここまでざっくり話してやっとタイトルに戻ろうと思いますが、(狭い意味で)変化というのは、ある目的を立て、それに向かってお互いが努力し、進んでいく道中での出来事のことを指すのだろうなと思いました。だから、時に人はその変化に安心するし、時に不安になるんだろうなと。しかし、私とAくんの場合どうでしょうか。まず、目的は立てていませんね(笑)。だから、それに向かってお互いに努力して進んでもありませんね。
■ポケモンでいえば、ずーーーーっとマサラタウンで釣りをしながら、釣りの話だけをしているみたいなもんです。はやくストーリを進めたい方、はやくゲームをクリアしたい方はどんどんポケモンと一緒になって困難にぶつかっては、レベルを上げ、四天王に挑戦という感じでしょうか。それはそれでいいと思いますが、マサラタウンでずっと釣りをするのもいいのではないでしょうか。それは途方もなく「変化」のない世界だと思います。ただ時間だけが過ぎているだけの世界です。
■それでもまだ、「いや、そういう世界にしかない変化、良さはあるよ」と言ってくださる方もいるかもしれません。お言葉はありがたいですが、私としては、極論、そういう世界に良さ、悪さ、変化という言葉はあまりふさわしくないなと思っています。なんにせよ、やはり大事なのは本人の心の中にある本音の部分(第三者が絶対に知りえない部分)であり、「その変化のない世界を、本人がどう感じ、どのようにして自分の人生の一部だと納得するのか」だと思います。
■少し哲学ちっくな、スピリチュアル的な感じになってきましたが、ちょっと現実的な話に戻したいと思います。Aくんは現在高校2年生で、年齢でいうと、17歳だったかな。私と4年間関わったということは、Aくんの人生の4分の1(年数だけみて)一緒にいたわけで、そのことをAくんがどう思ったのか、もしかしたらなんとも思っていないのかもしれないし、いや~よかったなあと思ってくれているかもしれないです。どちらにせよこの「変化」のない訪問がAくんの記憶に残ることはたしかであり、のちのち大人になったときにでも、おじいちゃんになったときにでも、思い出せる出来事であれば、私としては満足です。
■心理面接では、その人が実際にどのような問題に直面しているのか、どのような心理療法が適しているのかなど様々な情報を集めながら、支援及び援助していくんだろうなと私個人はざっくりと理解しています。しかし、訪問となると、すこし自由となるというか、訪問を希望する人に合わせて、情報を収集する量が異なってくるように思います。あとは、訪問する側の思いというか、やり方によっては異なってくるように思います。今回のAくんと私の場合、話のほとんどがゲームのことであり、Aくんの日常生活に関する話はあまり出なかったことや、私自身それほど聞こう聞こうとも思っていなかったこともあって、A君に関する情報はあまり入手していませんでした。
■今思えば、訪問を希望した理由や学校生活についてもう少し聞いてみてもよかったかなと振り返ることもありますが、こんなことから何が言いたいのかというと、心理面接ではたしかにクライエントの情報を質問や検査によって入手していきますが、訪問はどちらかというと、目で見る情報、もっといえば、家の中の様子、家具の配置、綺麗さ、広さ、そこに住むひとの様子など具体的でリアルな情報が常にあります。言葉にはしないけど、この子はお昼、焼きそば弁当ばっかりたべるんだろうなあとか、自分で洗濯しているんだなあとか、お母さんへの声掛けがすごいやさしいなあとか考えています。
■今、心理職として働いているからこそ、その現場の情報をイメージしやすくなったのは自分にとってはよかったことかなと思っています。面接室はいうまでもなく家とは別の場所であり、そこで得られる情報は耳頼りの情報になってしまうわけで、その情報を頭の中で少しリアルにイメージし、相手を理解することは訪問をしたからこそできることかなとふと思ったりしています。