漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

おなじ言葉

■「クローズアップ現代+」でSNSを介した性犯罪のルポを観た。(※閲覧注意)

www.nhk.or.jp

■出てくる単語ややり方が教育や福祉でつかわれるものと重なってぐったりした。「受容」「無条件の肯定」「子供に寄り添う」「ちょっとずつステップアップ」などなど。いや、すでにこれらの言葉はひろく世の中に馴染んだものになっているのだろう。子供と信頼関係を築き意欲を引き出す方法として。もっと言えば、子供にスムーズに言うことを聞かせる方法として。

■子供を心理的にコントロールし性的な行為にいざなう手口を「グルーミング」と呼ぶらしい。

井上:親も分からないわけですもんね。手口で共通点はあるのでしょうか。

川本さん:共通点は、みんなすごく優しい。受容的で無条件に肯定してくれるし、共感してくれます。

井上:そして、子どもは特に判断能力がまだないわけですよね。どういうリスクがあるのでしょうか。

川本さん:まず子どもの判断能力が未熟だから、ものすごくだまされやすいです。大人だったらこんなに優しいのはちょっと変じゃないかなって思うところでも、気付くことができない。

番組のサイトから引用した。この「リスク」はどの方向にもある。「受容的で無条件に肯定してくれるし、共感してくれる」人が勉強を教えてくれる。「受容的で無条件に肯定してくれるし、共感してくれる」人が悩みを聞いてくれる。「受容的で無条件に肯定してくれるし、共感してくれる」人がアドバイスしてくれた。「受容的で無条件に肯定してくれるし、共感してくれる」人が諭してくれた。「受容的で無条件に肯定してくれるし、共感してくれる」人がこうした方がいいと言った。「受容的で無条件に肯定してくれるし、共感してくれる」人にお願いされた。そうして、知らずにあるいは意図的に大人が子供をコントロールする。性加害に限らない。もっと広く力関係の話だ。

■もちろん、この対応が悪いわけではない。ナイフが悪いわけじゃないのとおなじ理屈だ。「ひとりの人格のある子だと思っていたらこんな声はかけない。一方的に支配できる相手として見ている」と番組でNPOスタッフが分析していた。だが、「ひとりの人格のある子」として相手を見るとはどういうことだろう。言葉ほど自明なものではない。常に自分を疑い、問い続けるしかない。それを怠れば、フリースクールだろうが学習支援だろうが子ども食堂だろうが子供を一方的に支配する場となり得る。

■カウンセリングマインドとか受容と共感とか、言葉が広がっても土台の思想が伴わないと簡単に方向はズレる。手法は手法でしかないから、なんにでも応用できる。サードプレイスやナナメの関係なんかもそろそろ怪しい。自分が頼りにしている言葉、大事にしたいやり方はときおり点検した方がいい。こんなことを書いている俺だっていつやらかさないとも限らない。全然、他人事じゃないのだ。それでこうしていろいろ危ぶみ、怪しんでいる。