■3月20日の山田の日誌に書かれたことは俺もときおり考える。なんと言えばいいか。どれくらい抽象化されているだろうか、と。
■10年以上漂着教室に来る子が、あそこの持つ具体的な機能を求めているようには俺には思えないのだ。いや、まったく求めていないわけじゃないだろうが、来始めたときに比べ相当減っているに違いない。実際どうかはあまり関係ない。なかばイメージの部屋に来ているのではないか。
■おなじことは人にも起きる。10年通う山田は、実体を持つ山田でありながら抽象化された山田でもあるのだ、きっと。「週に一度来る人」という存在。そこでの山田のパーソナリティは遠景にかすんでいる。
■別に不思議な話ではない。誰でもそういう経験はあるだろう。抽象化され、自身の内部にしまわれた他者。なにかあれば問いかける、心のなかの人。実在の人物に限らない。小説でも映画でもマンガでも、音楽でも絵画でも、イヌでもネコでも、なにかよすがになる存在を持つのは珍しいことではない。
■訪問がおもしろいのは、なかばイメージになっているとしても、実体のある人間が通っているところで、心に問いかけずとも直接聞こうと思えば聞ける。この「聞こうと思えば」がまたよくて、そう保障されていることでかえって「聞かない」という選択もできる。
■通うほど存在が薄くなる、訪問の意味が失われ日常のひとつになるというのは、こうやって抽象化されるからだと思うんだよな。漂流教室はあなたの心のなかにいるのです。
■そういや最終金曜日なので本来なら宴会の日なのですが、世の中、第四波襲来かと騒がしくなんだかちょいと怪しい気配なので、部屋は開放しません。オンラインもなし。みなさん、19時になったら心に漂着教室を思い浮かべて、それぞれのいるところで乾杯してください。