■じんわりと新型コロナ(COVID-19)の影響が出ている。漂流教室でも、先週は俺が、今週は山田が「念のため」自宅待機となった。そのことを振り返った、5月4日の山田の日誌がおもしろい。
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■誰もが起こすだろう「発熱」程度のことで社会参加が阻まれる。この状況に差別の構造を見た山田だが、俺が熱を出しときや、たまたまいた場所で陽性患者が出た(しかも接触していない)際は「秩序と安全」のため自宅待機を提案している。自身が「マイノリティ」になって気づくといった単純な話ではない。なぜなら、おなじように「晴らせない疑惑」で仕事に出られなかった俺が、山田の発熱には即、自宅にいるよう勧めたからだ。
■賭けてもいいが、このあと俺やほかのスタッフが調子を崩せば、「念のため」家から出ないようにと山田は言う。逆もまた然り。そして、閉じ込められた人が「復帰」するためには、周囲にお伺いを立てねばならない。厄介なことに、それが「当たり前」だと自身もなかば了承している。自分の行動を制限するのは勝手だが、他人の行動もおなじように制限できるはずがない。だが、本当に自然に、なんなら当然のこととして制限する。俺がそうだったし、山田がそうだった。
■自由だ権利だと口にするのは易い。だが、世の中の「正義」に抗うのは実はとても難しい。そもそも内面化が進んで気がつかない。気づいても、それを押し返す「対案」が思いつかない。逆らって、もしなにかあったらと想像すれば、どうしても保身が勝る。
■新型コロナという未知の存在とどうつきあうか。それはこれからの課題だ。その課程で、わかっていたつもりの自由や権利も、おなじく未知のものであると気づいた。こうして行ったり来たりしながら身に染み込ませていくのだろう。