漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

回復したけど

■月曜になり体温は下がり、平熱になった。午前中は体の重さと喉の痛みはまだ少し残っていて完全とは言えなかったが、午後になるとほぼ問題なくなった。ちなみに今、火曜にはまったく問題なくなった。

■さて、今回の発熱で自分は感染者かもしれないという前提で振る舞うことを求められ、自分もそうあるべきとも考え、周囲もその前提で自分を扱ってくるという経験をした。熱がある時期はそれを有意義なものと考えていられたが、熱が下がり体調も回復してくると周囲の捉え方と自己認識の差が気にかかって来る。

■こちらは万が一コロナウイルスに感染ということもあるかと思い、引きこもって生活していたに過ぎない。年に何回かは「先週から熱っぽいんだよね」なんてことは誰だってあるわけだ。2日くらい微熱が出ていただけだから、検査に行くことにもならなかったし、下がった今となっては確かめることもできない。自分としては全快回復元気になりました〜風邪でした〜という認識だ。それが周囲にとっては「コロナウイルス感染であった疑いの人」になり場合によっては「もう一度再発するかもしれないので完全に前と同じには扱えない人」になることがある。ああ、差別というのはこうやって生まれるんだな、とひしひしと感じる。それは、秩序と安全の衣を纏ってやってくる。誰も傷つけないように、という言葉で自分の恐怖を覆い隠し、差別されているはずのこちらもそれが当たり前であるように思ってしまうことすらある。

■秩序と安全を求める側に正義はあるので、マイノリティである自分がいくら「回復した問題ない」と言っても正義の存するマジョリティが認めない限りは、自分が社会参加することは認められない。そりゃ差別する側に「差別するんだ」という意識はないわけだ、と思う。それは正義の発露なんだもの。

■何も症状がない人を検査するような医療機関はあるわけないのに、回復したと科学的に証明できればいいのだとのたまう人もいる。コロナウイルスの流行という社会状況で引き起こされた自分の恐怖を覆い隠すための仕組みが秩序と安全なのであり、以前であれば「風邪治ったんだね」で済んだものが済まなくなったのは、自分のうちに起こっている恐怖のせいであるのを認めたくないばかりに、できる筈もない無理難題を「そうすれば安全だとわかるから」と相手に求める。

■緊急事態宣言はまた延長がかかった。きっと今回自分が経験しているような差別にも繋がっている人間関係のギクシャクは多くの人が経験していくのだろう。願わくば、秩序より自由を、安全より権利を。(火曜日)