漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

許されて続けていたら残酷に思えてきた

■こんにちは、ボランティアスタッフの高橋です。

■失敗は誰にでもあるものです。失敗はそれによって誰かに迷惑がかかってしまいます。この二つの仮定はいつでも正しいわけではないのですが、まあまあそれなりにそんなことがあります。

■自分は過去、失敗を責められたことがあります。「なんでわかんないの」「どうしてできないの」。その人にしてみれば次同じ失敗をしないための原因解明であったり、理由を知りたかったりしたのでしょう。でもそのときどうしても「責められている」と感じたことがあります。こちらの人格をないがしろにして「失敗」を追求されたような気がしたのです。そして僕はその人のことを「冷たい人だ」と思いました。

■さて、自分のまわりには違う対応の人がいました。どんな理屈を持ってしてもフォローしてくれる人です。「大丈夫だよ」「それでもあなたらしいよね」「そこはもっと失敗してもいいところだよ」。実は具体的なアドバイスをしているわけではないので、どちらかというと「許す」というか、そんな対応の人がいます。それでも、それはそれで苦しいのです。

■きっとその許しに他意はないと思います。「高橋はこうなった方がいいから許すという対応をすべきだ」と思っているわけではないと思うのですが、逆にそれが見えると、自分自身で自分のことについて考え、それが繰り替えされる感じがします。じゃあ自分はどうされたいのか、他人が存在する限りどんな感情を浴びせられても結局は疲弊するじゃないか。それが分かって、許され続けることが残酷なことに思えてきました。身勝手なものです。

■何年か前、漂流日誌に、近しい人から褒められたりするよりも、何年かに一度しか会わない親戚の「おおきくなったねー」的賞賛のほうがお互いが気負わずちょうどいいのでは、みたいな話があったことを思い出しています。でもそういう存在って大人になればなるほど難しいのかもしれません。「仕事」っていう環境とか、「新しい街で暮らしている」っていう環境とかね。きびしいよね。

■自分が動いてるんじゃなくて、列車に乗っているから相対的に自分が動いている、そしてなんなら自分も列車の進行方向と同じ方向に動いている。休息は自分が立ち止まるだけじゃなくて列車を降りないと休んでることにならない。その感覚が必要な気がしています。