漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

自分遊び

■もう何度も言ったり書いたりしているが、「自己肯定感」がよくわからない。それって『ザ・ワールド・イズ・マイン』ですか? というくらいわからない。「俺は俺を肯定する」とモンちゃんが言っていた。

俺だけじゃない。いま、自分を肯定できている人はみなわからないはずだ。自転車に乗れるようになったら、乗れなかったときのことはわからない。どうやって乗れたかもわからない。自分のことでもそうなのに、ましてや他人をや。

■なので、この手の話には加わらないのが礼儀なのだけど、こういう記事を読むと、そうかなと疑問がわく。

書かれているのは「存在そのものを認めよう」「自分らしい個性を認められる自分になる」など、よく見かける内容だ。どうなんだろう。自己肯定感って、こんな必死の存在証明みたいなものなのか。

■普段の生活で、俺は頻繁に自分をほめている。車を運転する。カーブを曲がるのに、事前に理想のラインを決める。その通りに走れればOK、できなかったら次に期待。ひどい悪路を無事通り抜けた、えらい俺。ノートの文字がきれいに書けた、さすが。でも、よくよく見たらそうでもなかった。まあ、それはそれで味がある。要は「遊び」だ。小さなどうでもいいチャレンジを無数に用意して、クリアできれば満足、できなくてもダメージはない。そうやって自分で自分を使って遊んでいる。

■「自分を使った遊び」をするためには、ちょっとした孤独がいる。ひとりの時間を過ごした経験がないと、この遊びは難しい。ひとり遊びは案外難しくて、ひとりでなにかしてるようで、単に外からの刺激に反応しているだけだったりする。自分のなかに、自分を刺激する自分を見つけ、自分をジャッジする自分を見つけて、自分と競う自分を見つけて、ようやく「自分を使った遊び」ができる。

■自己肯定感を高めるものがあるとしたら、この「自分のなかの自分たち」なんじゃないかと思うのだけれど、ではどうやってこいつらをつかまえたかとなると、もうわからない。気づいたらいたからな。その過程に「存在そのものを認められた経験」があったりしたのかもしれないが、そんなことより「ひとりでいられたこと」の方が重要な気もする。あとは「暇」と。暇がないと遊べない。自分とたくさん遊んだ経験が、自分のなかに多くの遊び相手を生み、いまも内側の気圧を上げている。

追記: