漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

2016年合同教育研究全道集会

不登校は現象でしかなく、背後にさまざまな課題があるという話をこれまでしてきた。不登校そのものを問題と捉えるのではなく(それでは解決方法は登校しかない)、子供理解の切り口にという話もしてきた。間違っているとは思わない。だが、なにか見落としていたかもしれない。不登校・高校中退分科会の報告を聞きながら思った。

不登校の事例に参加者からいろいろな質問や助言が出る。クラスでのポジションについて。家族構成について。本人の持つ特性について。そうやっていろいろな角度から光を当てるのは間違いじゃない。不登校の背後にはさまざまな事情があるのだから。だが、正直なところを言えば、聞いていてずいぶん面倒な気持ちになった。

■みんながにわか探偵かプロファイラーのようになって、一生懸命、問題を推理している。隠された問題がどこかに必ずあるはずだと。その作業は、知らず知らず対象を「問題を抱えて動けない不幸な人」にしてしまう。

■確かに学校へは行っていない。学校でも家庭でもなにか課題はありそうだ。でも、それもこれもひっくるめて、「思春期だからね」くらいのことだったりしないか。そのうちどうにかなるものだったりしないか。プロファイリングは「今の問題」にこだわりすぎて、「人は変化し成長するものだ」という当たり前のことを忘れる。細分化し、分析して、専門家が対応することでリスクを減らす。そこに成長への信頼はない。

不登校の背後に課題があると言ってきた俺もこの状況に加担している。エラそうなことは言えない。もっと余裕をもってかかわろうと言っていたはずが、余裕を奪う側に回っていた。不登校は問題じゃないと言いながら、別の問題を探させていた。いつのまにこんな狭いところへ入り込んでしまったんだろう。まいった。(11/7夕)