漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

あいまいなもの

■「多様な教育機会確保法案」についての高山龍太郎さんのブログを読んで、そうなると困るな、とまず思った。

また、現在、不登校の子どもに対しておこなわれている指導要録上の出席扱い(フリースクールなど学校外の活動を校長が有益と認めると、小中学校の出席としてみなせる)や、ほとんど出席がなくても小中学校を卒業させるという取り扱いは、多様な教育機会確保法ができると、かなりやりづらくなるのではないでしょうか

多様な教育機会確保法ができると、義務教育を受ける権利が実際には保障されていないのに保障されたことにしてしまう「不登校の子どもの出席扱いや卒業」という運用は避けることができます。公立学校の教員は公務員です。公務員は、法律にもとづいた手続きを強く求められます。したがって、公務員である公立学校の校長が、上記のような制度的に危うい運用をしたがるとは思えません。これまで、そうしたリスクを冒してきたのは、「不登校の子どもが不利にならないため」という大義名分があったからです。多様な教育機会確保法ができて、小中学校以外で義務教育が可能になると、こうした大義名分はなくなります

※全文はこちら→http://r-takayama.at.webry.info/201507/article_5.html
■どうして困るのか。あれこれ考えたのだが、あいまいさがなくなってしまうから、という理由が一番しっくりくる。不登校はかなりあいまいな制度の運用に頼ってきた。不登校を「認める」ということは、あいまいな状態を「認める」ということなのかもしれない。

■なぜあいまいを認めてほしいのか。それは、そもそも子供はあいまいなものだから。または変化や成長はあいまいなものだからだ。そして、法律とは「いま」を「明確に位置づける」ものだ。あいまいなままにしてほしいものを、明確に位置づけろと要望する。「多様な教育機会確保法案」をめぐる議論が紛糾するのも当たり前だろう。そもそも矛盾を内包してスタートしている。

■思えば、この法案への批判は多く「待ってくれ」「なぜ急ぐ」というものだった。この言葉は学校へ行かなくなった子供のものと重なる。おそらくここに批判の本質がある。待ったなしにシステムに組み込まれてしまうことの拒否。自分の存在を確認するための、固有の時間を求める気持ちが。

■一方で、法案成立を進めたい人もいる。その人たちは充分に待ってもらったのじゃないか。あいまいな状態を待ってもらった結果、自分が変わった。そうしたら今度は変化した「いま」を世の中にきちんと位置づけてほしい。そういうことなのではないか。

■高山さんのブログには、公開イベントにて、「子どもの権利条約」が求める「子どもの最善の利益」尊重を法の理念に明記する、条文に「休息の権利」を盛り込むという意見が出たと書かれている。「子どもの権利条約」は評価されているのは、「育つ権利」や「休む権利」など、存在自体、成長というあいまいなもの自体を保障する内容だったからかもしれない。

■変化したあとを評価するための法律が、生存や成長というあいまいなものを潰してしまうかもしれない。しかし、それこそが変化の土壌だ。あいまいさを保障する法律に変えられないか。法案をめぐる議論はそういう内容なんだろう。両方を盛り込むことは可能なんだろうか。むしろ、範囲を限定した方がいいのじゃないか。結論は出ないが、9月にフリースクール全国ネットから人が来て、意見交換するイベントがある。ぜひ多くの人に来てほしい。