漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

学校擁護の話その二

■午前に訪問の後、岩内行き。秋の山が紅葉していてきれいだ。直に冬が来て散ってしまう。わずかな間の楽しみ。帰り道にきのこ王国に寄って、ナメコなどを買って帰った。

■さて、フリースクールの学校擁護の話その二。前回はここ。数字から見ると、実は学校は多様性を包含している場所であると考えた方が良いという話だった。ただし、1%強の児童生徒には対応しきれないので、必ず不登校状態の児童生徒は生まれるということになる。

■それでは、その1%強の児童生徒の教育はどのようにあるべきか。それは違う人や組織が対応するべきと考えるのが自然な流れだと思うし、日本のフリースクールはそれを目指して設立したところが多い。漂流教室だって、そういう考えでスタートしている。しかし、将来の日本の公教育の姿を考えた時に、公教育とそれが合わない人という分け方をして、別の教育システムを作ることが良いのか。もしかしてそれは、一つの場所では一つの教育システムを行う方が事務処理や教授方法が楽で済むという、大人の都合なのではないか。

■例えば、教育研究集会で聞いた道内の地方高校の話を思い出す。町内に一校だけのその高校には、小さい頃から共に育ってきたその町の子供がほぼそろって入学してくる。中には障害を持った生徒もいるのだが、それはそれとして子供たちの中で受け止められている。最初はどうなるのかドキドキするのは学校の方だったが、子供たちの自然な接し方を大事にクラスを作っているという話だった。

■障害を持っているならどのように配慮せねばならないのかというのも、自分たちの行う教育の想定している子供像に合わないがゆえの、学校の悩みである。けれども、子供たちは自然に子供たち同士で成長していた。そして、この話は、学校がそれを受け止め、それを内包できる懐の深さも持っていることを示している。

■この話では障害という基本的に不可逆的な属性がベースになっている。それに対し、不登校になるほどの公教育との個人の相性の悪さは、時々刻々と変化するものであることも多い。それが故に、学校は教育をシステム化することができず、自分たちの指導に乗っかることを第一に考える。或いは、相性の悪い子供たち用の教育システムを考える。しかし、実は、相性の悪さとその変化自体が成長そのものなのではないか。

■だとすると、必要な場所は、そうした1%強の相性の悪さを持った人も、つかず離れず教育と付き合える場所なのではないか。とりあえず、今回はここまで。(火曜日)