■麻雀は近年稀に見るほどのツキの無さでぼろ負け。やることなすこと裏目に出たよ。
■大阪維新の会が議会へ提出しようとしている「家庭教育支援条例(案)」を巡って、多くの人が批判をしている。発達障害が乳幼児期の愛着形成の不足によって引き起こされるという、不正確な知識を前提として、「その予防・防止をはかる」としている第15条に対して、特に批判が向かっている。障害を持った人は必ず一定の割合で生まれてくる。そうした人を育て共に生きる家族が、常に自分の愛情が不足していないか怯えながら生活するとしたら、それはとても苦しかろう。
■大体、「愛情が不足」という言葉は、愛情が水か何かのように注いで満ち足りていくものというイメージが隠れている。人の心情なのだから見えるはずが無いのに、障害があれば愛情不足・無ければ充足しているとあたかも測ることが出来るもののように扱うのもおかしい。そうやって外部に愛情の在り様を規定されると、自分の行動をそれに合わせて律しようとするタイプの人が苦しむ。
若い父親「ドラマとかであるでしょ?デカくて深〜い父親の愛っつーの…子どもが生まれたらオレにも自然にそーゆーのが出てくると思ってたのに、なんかねぇ…イタイっすよねぇ。愛の足りない父親って」
主人公「必要ですか?愛って。
A愛がある B愛がない ならAの方が望ましいでしょうが、
A愛はあるけど世話はしない B愛はないけど世話をする ならBがベターだと思うのです。特に乳幼児期は」
逢坂みえこ『プロチチ』一巻より
この若い父親のように、「イタイっすよねぇ」と思いながら子育てするのはやはり苦しかろう。しかし、主人公のように自分の中に基準を持って生きていくことが出来る人は少ないだろう。
■さて、この点に批判が集中しているのは当然だと思う一方で、ぼくは危うさを感じている。もしかしてこれは、維新の会の戦法なのではないかと思うのだ。本当に通したい条文は他にあって、それを反対派に悟られないように、食いつきやすい餌を用意してそこを譲歩することで実を取るという戦法。橋下市長のツイッターでの反対意見も、出来レースじゃないのか。だから、この条例全体を俯瞰的に見て批判する必要もある。
■思うに、きっと今回この条例を作ろうとする人たちは、「プロチチ」に出てくる若い父親のような人を支援するのだと息巻いている。「親の自覚は徐々に出てくるんですよ。それを支援しますよ」なんてことを言いながら。多分、彼らの狙いはそのあたりにあると思っている。基本理念の「親は子の教育について第一義的責任を有すること」「親と子がともに育つこと」の裏にあるのは、決して社会福祉的視点などではない。近所の口うるさいおじさんおばさんと大差ない視点が、「伝統的子育て」なんていう言葉と共に押し付けられるのだろう。政治家なんだから、多くの人が知らない、様々な人の生き方を知ってくれ。人の育ちは一つではないのだ。
■ああ、一つ深く意識できた。政治家は科学やら哲学やらの専門家では無いかもしれないが、世の中で生きる多くの人を知っている必要があるのだ。老若男女貧富の差を問わず。(子供の日)