■本日も30度超えですな。まだ六月なのだけどねぇ。でも、一年も半分終わったのですねぇ。などという会話を訪問先のお母さんとする一日。庭の野菜にはちょうどいい。
■自分の名前でツイッターをしている。最近、以前の知り合いを見つけてちょっとうれしい。
■ツイッターで「フリースクール」と検索をかけてみると、出てくる結果は不登校の小中学生が通う学校の代替物(オルタナティブな学校)としての「フリースクール」ばかりだ。漂流教室のような、成長と学びに付き合う人と過ごす場として捉えている人はまずいない。オルタナティブな学校としてのフリースクールを否定する必要は無いが、フリースクールとそこを利用する人の概念をもっと多様にしなければならないと思う。
■ところで、上で漂流教室のことを「成長と学びに付き合う人と過ごす場」と考えてみたが、この定義ももっと緩くなったり厳しくなったりするものだ。漂流教室を始めたばかりの頃は「家から出るのは苦手だけれども、人と会ってみたいという思いはある不登校・ひきこもりの人たちを訪問する機関」だったし、今だって時によっては「学校や家で困難を抱える人を他機関と連携してサポートするフリースクール」になることだってある。要は、自分たちのしていることの重層性を自分たち自身が認めないとね、ということだ。自分はこうです、という言葉は求められた時に、問うている人に応えるだけで構わないのじゃなかろうか。
■今週も来週も、発表する機会があって準備しなきゃだわさ。