漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

第二回JDEC日本フリースクール大会

■10・11日と参加したフリースクール全国ネットワーク主催のフリースクール大会は、今回も頭をフル回転させたフォーラムだった。いつもなら時系列に沿って書くのが好きなぼくだが、今回は漂流教室で行う各種のイベントの中で報告するとしたい。ここでは、全体を通して思ったことを書き連ねていこう。

■昨年は「フリースクールからの政策提言」、今年は「オルタナティブ新法」と、政治的な動きを考えていくことが主題の一つであるこの大会で、席についてぼくが一番始めに考えたのは「フリースクールを公教育化する」という路線についてだ。教育はコミュニティ*1の要請によって行われるものでもある。だとすれば、我々フリースクールを運営している人たちは各々どのようなコミュニティを作ろうと考えているのだろうか。一方で、人は自ら学び育つ存在である。だとすれば、それにはどのような環境が必要であると我々は考えているのだろうか。後者は、自分が望むことを昨年の同じ時に考えた。*2今年は前者について考えることができた。昨年のように結論としてはまだ出ていないが。

■今回、シンポジウムの一つに韓国の代案教育(オルタナティブエデュケーション)に携わる人たちの話しを聞くものがあった。韓国では小・中・高では入試が無い。しかし、大学に入るためには年一回の「修学能力検定試験」で測定される成績によって受験できる大学が決まり、その後各大学の入試を受けることになっている。05年の資料*3によると98%以上の高校生が大学進学をしている。曰く「バイトも大学生で無ければ難しい」という状況だそうだ。このため、高校生であれば一時間目は七時から始まり学校の授業後は塾に通って夜11時という生活も当たり前のようだ。「三当四落」という言葉も聞いた。これは「睡眠時間三時間なら合格、四時間では不合格」という意味とのこと。このような過酷な進学競争の歪みが90年代後半から日本以上に出てきて、青少年のうつや自殺など社会問題が続発したようだ。そこで人々は教育そのものについて問い直しを始め、日本なら各種学校にあたるような「特性化学校」という制度を作り、そこに公的支援が入るようにしていった。そこでは不登校は大きな問題の一つではあるが、「特性化学校」は不登校への対抗策として作られたものではない。

■さて、JDECに参加している人たちの多くは不登校について考え、フリースクールを運営している。これは日本の教育制度が引き起こす問題に対して人々が作り上げた適応形態だ。日本では、子供が不登校になった時の困りは各家庭の困りであり、社会問題であるという認識は後からできあがった。これは政府の対応を振り返ってもわかるだろう。「不登校は誰にでも起こり得る」という文科省が認めたのは、90年代も半ばに入ってからだ。それまでの間もそれ以降も、日本では個人*4をどう救うかという手段を考えることが、不登校対策のメインストリームになっている。

■日本と韓国でのフリースクールが持つ意味合いの違いは、教育制度が形作る成長環境に対して社会が持っている柔軟さが違うということに基づくとも言える。韓国では進学率から見て日本以上に進学への圧力が強い。しかし、大学入試までは選抜されることが無いため、そこまでで進学圧力に耐えるまで成長できる子供も多いのでは無いだろうか。その替わり、不適応になった場合、親や教師にとっての問題は、行かない時の学校とのやり取りの苦労や子供への指導の仕方ではなく「大学に行けない」という事に絞られるだろう。そして、子供自身の適応も不登校と共にうつや自殺が多くなったのだろう。だから、「大学進学はそんなに大事なことであるのか」「この国の教育システムはこれでいいのか」という問題意識に繋がりやすかったのではないだろうか。日本では高校で入試が始まることからして、子供の適応能力の限界が韓国より低いだろう。その場合、適応できない子供が「学校に行かない」という選択肢を韓国よりも早く選ぶことになる。そうすると、不登校でいる時間が長いことが予想される分、それぞれにとっての問題は多方面に渡ることになる。解決すべき問題が多い分、社会問題としての教育制度全体を考えることは遠くなったのではないか。

■しかし、日本型の不登校ではその時間が長く子供が幼い分、成長の余地が多いということでもある。フリースクールという場を作り子供と接していった人たちの中には、その成長と関わる中で教育について再考する人も多く出てきているはずだ。この状況下では、多様な成長を元に、観念的でない人間中心の教育とは何かを考えることができる。それは育つ人中心にして新たなコミュニティを作り出すことでもある。これまで二回のフリースクール大会は、まだまだ限られた人たちしか集まっていない。まだ見知らぬフリースクールを運営している人たちが何を見てきて考えているか、我々は知らなければならないだろう。また、日本全国で子供と付き合っている人は、フリースクール以外にもたくさんいる。その知見も合わせていくことが教育を考えるためには必要だと強く思う。

*1:ここでは「社会」と言わない。「社会」が全国的な意味合いを帯びるからである。

*2:http://d.hatena.ne.jp/hyouryu/20090112

*3:http://rche.kyushu-u.ac.jp/~hayashi/haifu/Seminar06K13_1129b.pdf

*4:この個人には子供だけではなく、子供の状況に困る親・教師も含む