漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

2009年合同教研全道集会(その1)

■去年の「子ども・成年の発達と教育」分科会についてどう書いたかを見てみたら、がっくりしたということだけ出ていて、何がどうだったか書いていない。通信332日目には書いているので見直したら、今年の感想とまったく同じだったのでまたがっくり。しかし、二年間がっくりが続くと考えることもあった。

■去年も今年も、話の中心は小中学校で特別支援が必要な子供を目の前にして、どうすればいいのか困っているという報告だった。教師たちはどこでこの話ができるかよくわからないらしく、障害教育の分科会とこの分科会で同じような内容の報告が行われていた。この分科会はもともと乳幼児期からの発達も射程に収めた分科会で、学校だけではなく多種多様な機関での発達も含めた話が展開されていたものだったらしい。というのは、自分がこの以前持っていた視点こそが、特別支援を考えるためには有効なのだ。それは、学校という時間・空間が限定された状況において如何に人を適応させていくかという教育的視点ではなく、育ちの主体である人を中心に据えて当事者をどう支援するかという福祉的視点だ。「育つ/育てる」の狭間をどう揺れ動くかが特別支援教育に携わる人にとって重要だとぼくは思うが、教師の皆さんはどうか。

■狭間という話しはもう一つある。教師にとって上手くいったことと問題となっていることがレポートでは語られる。しかし、主人公たる当事者の日々はその狭間にも存在している。恐らく、そこにこそ上手くいく理由や問題のきっかけになること・それを解く鍵があると思う。教師にとっては問題でも、当事者にとっては止むに止まれずやっている適応のための行動であることは多い。その行動で何を解決しようとしているか、その行動以外でどのような行動で問題の解決を図ろうとしているかなど、本人と付き合わないと見えないことも又多い。それは問題だと感じた教師の意識の狭間に落ちている、当事者の有り様をどう掬い上げるかにかかっている。

■今回のレポートで一番自分がしっくり来たのは、小規模な小学校で子供の問題に関わっている中で親同士の問題が見えてきて、そこに対してゆっくりと色々文句を言われたり励まされたりしながら繋がりが出来ていくという事例だ。今一番漂流教室がやっていることに近いからだな。逆に一番しっくりこなかったものは、高機能自閉症の子を持つ親から自閉症について授業をして欲しいと要望があったのでやったというレポート。小学校低学年で本人に告知も行われていない段階で、周囲は当人が自閉症であることを知っているという状況を生み出すことは色々と問題があるだろう。母の思いは本人が困らない環境作りという点にあるはずで、それはその子が自閉症だと周囲に知らせることではなく、当事者と周囲の環境調整をどう行うかにかかっているはずだ。でも、その点を指摘したら、久し振りに怖い山田になってしまったみたいだ。残念。