漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

第47回道民教

■8/6、道民教合同研究会に出席。第10分科会「不登校・登校拒否の子どもたちと共に」の参加者は出たり入ったりで16人。去年もそうだったが、学生の参加が多い。今回も半数は学生。面白いのは、教員志望なのではなく、友人や家族に学校に行ってない/なかった人がいて、その理由を知りたくて参加した学生が少なからずいること。スタッフ志望の動機にもときどきある。「人は楽しいこと、嬉しいことの理由は探らない」という野村さんの言葉を借りれば、不登校は本人のみならず周りの人間にも"傷"として残っていることになる。

不登校の傷を考えるには、今回のレポートはそこそこ役に立ったかもしれない。北海道自由が丘月寒スクールからはフリースクールでの学習の記録が、函館アカシヤ会の野村さんからは子供が不登校になったときに周りがとるべき対応が報告された。俺はフリースクールネットワークが取り組んでいる不登校政策への提言を報告。この「提言」は大雑把に言うと、学校システムへの支援になってしまっている現在の不登校政策を子供本位のものに変えよ、というもので、具体的には、多様な学習環境を認めることと、経済的なものも含めたそこへの支援を柱にしている。学校に行かなかったとしても、道が閉ざされたわけではないことは伝わったのではないか。

■討議では総じて「学校現場の大変さ」が語られた。これもここ数年の特徴のひとつだ。話の内容がそうだったこともあるが、不登校というのはやはり「学校の問題」なんだと改めて思った。問題点を挙げるにも対策を練るにも、常に主語は「学校」だったりする。不登校を語るとき、人は知らず学校を語る。「学校の××がよくない」「学校に××をしてもらいたい」。それは学校に新たな役割を課す。教師の大変さを救うのに、「もっと学校が開かれることが必要」と言ってしまうと、その時から「学校が」「開かれるため」努力をすることになってしまう。楽になるため頑張る、という矛盾したことになりかねない。

■結局、何を語るにも「学校」が中心に置かれてるからそうなるので、「子供」を中心にアプローチし直す必要があるのではないか。その子個人が何を手助けして欲しいと思っているのか。それに対し、周りが何が出来るのか。子供と自分の問題に捉え直すことで、一方的に学校に課題を押しつけずに済む。そういう話をした。

■子供が育つには、時間と他人が必要ということを以前書いた。道民教でも同じ話をした。それは学校に限らない。学校以外をどれだけ語れるかが、不登校分科会のテーマのひとつなのじゃないだろうか。