漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

寄り添う

■数年前、北海道新聞教育面に「ふりーすくーる通信」なる連載があった。道内のフリースクールスタッフが交代でコラムを書く。フリースクールの活動や理念を広く知らせるいい機会だったが、担当記者がしょっちゅう文をいじるので、執筆側には不評な企画でもあった。

■「漂流教室」も例に漏れず、直す直さないでよくもめた。メンタルフレンドの説明をするのに、「子供の気持ちに寄り添う」と書いて、担当者から電話がかかってきたことがある。「寄り添う」は物理的なもので、感情のような実体のないものには使えない、というのだ。言い分はわからなくもないが、これは喩えだから、と説明したが、新聞社の決まりでどうしてもダメだという。素人はそういう"文学的"な表現を使いたがるんですよね、というようなことを言われ、カチンときたのを覚えている。すったもんだの挙句、ナントカいう表現で(忘れてしまった)合意したのが、翌週紙面を見たら勝手に違う言葉に変えられていて、さらに腹が立った。

■こんなことばかり続いて書く側がやる気を失くしたか、それとも担当記者がイヤになったか、ほどなくして「ふりーすくーる通信」は終了した。

■というようなことを、昨日の北海道新聞を見て思い出したのでした。「チャイルドラインさっぽろ」について書いた記事で、こんなブンガク的な見出しがついている。「札幌の『チャイルドライン』、悩みに寄り添い3年」。


■メンタルフレンドとは何とも言い難い関係だと気づいたのもあのときだった。「『気持ちに寄り添う』じゃなく、『気持ちを理解する』はどうですか」「うーん、理解したいとは思いますけど、実際理解できたかどうかは分かりませんから」「じゃあ、『悩みを解決する』じゃダメですかね」「いや、別に解決が目的じゃないんですよね。それに悩んでるとも限りませんし」「それじゃ何が目的なんですか」「だから、ただそばにいるだけというか。それで、そのときの子供の気持ちに注目するんですよ」「で、元気にさせるわけですか」「いやいや、注目するだけでいじりはしないというか。一緒にいることが重要なんで、だから『寄り添う』なんですよねえ」。どうもうまく説明できない。それで、今もうまく説明できないから始末が悪い。

■はっきりしてるのは、「誰か」と「時間」の両方が必要なことがあるってことだ。メンタルフレンドはそれを保障するもので、何らかの結果を求めるものではない。コーチングにずっと違和感があったのだが、あれは目標や結果が共有されて生きる手法だ。メンタルフレンドでは、そこはさほど重要ではない。共有するのは時間であり、関係そのものが肝になる。

■こんなことを講演か何かで喋ったら、誰か聞きたい人っているかな。もしくは、訪問支援の団体を集めて「訪問とは何か」で語ってみたりとか。どんなもんか。